私の悟りと哲学
〜沈黙を脱ぎ捨て、雄弁をまとい、時化を泳ぐ〜
変な時間に目が覚めました。
丸一日起きて活動していれば、そうなるのも無理はないのでしょう。
動悸も何かのきっかけで不規則に起こります。多忙によるストレスなのかもしれません。
叔母の命日の供養も無事に終わりました。
そして日曜日。
この一週間で、ようやく休める一日になりそうです。
とはいえ、予定が埋まりすぎなのかもしれない🦆
一難去ってまた一難(笑)
人生、あと何年あるのでしょうか。
令和8年。
恐らく、私はこの一年を生涯忘れることはないでしょう。
様々な出来事に遭遇し、疑問を抱きながらも、自分ができるところまで向き合い、追求していこうと思っています。
それも、未来に向けて。
そこに「悪意」があったのか。
少なくとも、私自身に悪意はありません。
だからこそ、堂々と自分の道を歩いていきたい。
私の人生ですので。
それが誰かの迷惑になったのでしょうか。
むしろ、私自身が迷惑を受けたと感じることもあります。
自己中心的な行動と言動。
一般的には「一般常識」
社会的には「社会通念」
そして、人間的には「人として」
私たちは、何を基準に物事を考え、判断し、行動しているのでしょうか。
必ずしも、正義がすべて正しいとは限りません。
正義を掲げていたはずが、いつの間にか「自己保身」へと傾いていく。
そんな人間の姿を垣間見ることがあります。
人生経験とは、そうした人間の本質を見極める目を養うことなのかもしれません。
良かれと思って始めたことが、いつしか物事を深みに陥らせてしまう。
そして、最後に残るのは「感情」だけ。
迷惑な話である。
その感情は「恩讐」なのか、それとも「怨讐」なのか。
感謝と憎しみ。
人間の心は、時としてそのどちらにも傾くものです。
私は、過去の経験から、行き過ぎた正義感が必ずしも良い結果を生むとは限らないと感じています。
しかし、その正義が本人の思想そのものになっているとしたら、何度でも同じ行動を繰り返すのでしょう。
そこにあるのは、本当に「正義」なのでしょうか。
それとも、単なる「意地」なのでしょうか。
迷惑な話である(笑)
私自身も、若い頃は正義感を一つの「ものさし」として生きてきた時期がありました。
他人に正義を求める。
自分にも正義を求める。
しかし、その結果が必ずしも答えになるわけではなく、解決につながるとも限りません。
解決したと思っても、そこには傷跡だけが残ることもあります。
その傷跡さえも、今となっては人生の「勲章」なのかもしれません。
物事には「流れ」というものがあります。
過去の川の流れを、現在という場所から眺めても、あの時の水はすでに先へと流れています。
過去の川には、もう魚はいないのです。
いなくなった魚を追いかけても、時すでに遅し。
「諸行無常」
すべてのものは移り変わり、同じ場所にとどまることはありません。
しかし、どこへ行っても、どこの川でも、同じような環境を生み出してしまうことがあります。
自分を省みることなく、また正義を振りかざす。
「変な正義感」😁
迷惑な話である。
では、自分自身の正義とは何なのでしょうか。
他人の姿を見ながら、私自身も考えてみます。
静かなる沈黙。
言葉を重ねれば重ねるほど、それが言い訳に聞こえることもあります。
そして、受けた傷に塩を塗られる。
かなりの激痛です。
そんな時、ふと日本神話の「因幡の白うさぎ」を思い出しました。
傷ついた身体を塩水で洗い、さらに苦しむ白うさぎ。
自分自身に置き換えて考えてみました。
塩は、傷に触れれば痛みを与えるもの。
しかし一方で、古来より「浄め」の象徴でもあります。
「塩」から「激痛」へ。
そして「浄め」へ。
もちろん、傷に塩を塗れば治るという話ではありません。
これは、私なりの心の解釈です。
傷つく経験を経て、何かを知り、何かを手放し、そして自分自身を見つめ直す。
そこには、微かな悟りがあるのかもしれません。
いつもながらに、人生とは奥が深いものです。
僧侶だった叔母が、よく言っていました。
「最終的には、哲学だ」
今、その言葉の意味を改めて考えています。
知識は勉学によって得られるもの。
しかし、知識があることと、知恵があることは必ずしも同じではありません。
もちろん、知識は必要です。
しかし、私は知識以上に、経験から得られる知恵を大切にしたいと思っています。
喜びも、悲しみも、失敗も、理不尽さも。
その一つひとつが、自分自身の人生観を形づくっていく。
そして、経験を重ねるほど、言葉は少なくなり、その一言が重くなる。
それが、私の考える「静かなる沈黙」です。
沈黙は、時として雄弁よりも多くを語る。
これまでの沈黙は、私の忍耐でした。
自分の信念や立場を守るために、あえて語らずにきたこともあります。
言いたいことがなかったわけではありません。
むしろ、語りたいことは山ほどあります。
しかし、これからは少し違います。
沈黙は私の忍耐。しかし、これからの雄弁は私の意志。
語るべきことを語り、伝えるべきことを伝える。
その雄弁さが、これからの私には必要なのだと思います。
雄弁とは、声を荒らげることでも、多くの言葉を並べることでもありません。
事実をもって語り、理性をもって伝え、信念をもって貫くこと。
その信念こそが、これからの私の人生を支えるものになるのでしょう。
悟りとは、すべてを許すことでも、感情を失うことでもないと私は思います。
自分の中にある怒りも、悲しみも、疑問も認めたうえで、それらにどう向き合い、どう生きていくのか。
その答えを探し続けること。
それが、今の私なりの「悟りと哲学」です。
人生の荒波とは、よく言ったものです。
穏やかな海ばかりではありません。
時には時化に遭い、行く先さえ見えなくなることもあるでしょう。
それでも、私は自分の意志で進んでいきたい。
令和8年。
忘れることのできない一年。
しかし、この一年が私の人生の終着点ではありません。
むしろ、これから始まる人生のための、大切な一頁になるのだと思います。
春から続く浅き眠り、深夜からそのまま朝を迎えることも少なくありません。
静寂に包まれた長い夜。
沈黙を脱ぎ捨て、雄弁をまとい、時化を泳ぐ。
正義を語る者は多い。 しかし、自らの正義を疑える者は、どれほどいるだろうか。
